忠犬タロウの武勇伝とウォーリーを探せ

私が幼い頃、母の実家から一頭の雑種犬をもらい家族で飼い始め、『タロウ』と母が命名した。母の実家は左官屋で、祖父のショウさんが猟もしていて、祖父亡きあとは伯父が引き継いで常に猟犬が5頭ほどいた。頑丈な檻の中で飼われていた犬たち。トラ柄でもないのにトラという謎な名前の雌犬、赤茶色のアカ。恐らく名前もテキトーにつけられ、シャンプーも一度もされずいつも檻の中で暮らしていたその犬たちのことを、臭いだの吠えてうるさいだの言っては、子どもながらに(気の毒だな)と内心思っていた。

タロウはアカの子どもだと聞いた記憶がある。タロウも赤茶色で白い斑点がある漢(オトコ)って感じの凛々しい雄犬だった。

タロウは賢かった。母が私たち子どもと同じようにタロウにもあれこれと話しかけて育てたのだ。昭和のあの頃は、リードのことを『鎖』と呼んでいた時代。たいていの家庭では、犬は放し飼いかもしくは外で小屋に繋いで飼っているのが当たり前だった。

タロウの部屋は私たちの玄関だった。出迎えるのも見送るのもタロウだった。

タロウのご飯は、母がスーパーで買ってきた『なとりの焼き鳥』の缶詰と白米を混ぜたものだった。ドッグフードに飽きたのか、与えてもあまり食べなくなり、母がその缶詰を買ってきて与えると、夢中になってバクバク食べていた。いつのまにかタロウはグルメになっていたのだ。

父の仕事仲間のKさんというおじさんは、当時しょっちゅうバイクで我が家に寄っていた。そして玄関に入ると必ず、タロウが残したドッグフードをカリカリと食べていた。タロウはそのおじさんのバイクの音を覚えて、バイクの音が聞こえると慌ててドッグフードを完食していた。どうやら盗られるのはイヤだったようだ。

(ちなみに私は、タロウの餌のイメージがまだ強烈に残っていて、なとりの焼き鳥を食べられないが、娘のお弁当で一度だけ使わせてもらったことはある。炭火焼きの美味しそうな香りがした。あの頃の焼き鳥よりも進化していると思われる。)

タロウは放し飼いだったので、いろんなところに出没していた。私が小学校低学年の頃、母が数ヶ月間入院していたときに、毎日夕方5時のサイレンが鳴ると、タロウは母とよく行っていたスーパーの出入り口の前でずっと母を待っていたそうだ。友達のお母さんに後日教えてもらった記憶がある。その友達のお母さんが「タロウ、ママはいないよ」と言うと、てくてくと家の方へと歩き出したそうだ。

2軒隣の家で飼われていたムクという、毛ボーボーの雄犬とは、なぜかものすごく仲が悪かった。このムクも放し飼いされていて、私たちが駄菓子屋に行くのにムクの家の前を通るのだが、毎回タロウとムクが数分間揉めるので、その喧嘩が終わるのを待っているのが苦痛だった。ムクは何度やられても喧嘩を売ってきて、タロウは売られた喧嘩に必ず勝っていた。母に話すと「タロウはすごい!タロウは男前!」と褒めちぎり、タロウはめちゃくちゃ嬉しそうだった。今となってみれば、犬も人間も男って単純なんだな、と思う。

忘れられないエピソードがある。いい加減、この話で終わりにしよう。

私の授業参観日に、マザコンタロウは小学校まで母を探しに来て、勝手に校内に侵入し、廊下をウロウロして母を探していたのだ!母の匂いを嗅ぎ付けたのかはわからないが、母が家を出る前に「タロウ、ママは学校に行ってくるからね」とだけ伝えていたそうだ。

だが上には上がいる。授業参観で思い出したのだが、先日私に「明日の授業参観、行く?」とLINEしてきた私の親友の犬・ウォーリー(雄犬)は、昔、伊豆急に無銭乗車して伊豆急下田駅で降り、知らない雌犬と腰をフリフリゆきずりの行為をしていたところを誰かに発見され、保健所が保護したらしい。電車の中で犬を見たという目撃情報もあったらしいから、やはりウォーリーは電車でフラッと下田に行ったのではないか。数日間行方がわからなくなっていたウォーリーが、50kmも離れた下田で発見され、みんなでぶったまげたのを覚えている。まさに『ウォーリーを探せ』だったのだ。

昭和の雄犬は、いろいろヤバい笑

今でこそ考えられないが、そんな時代もあったんだなぁと懐かしい気持ちになった。